渡る世間でヘマばかり

ただただ、吹き溜まってNIer方面に燻っている中年の痴呆ブログ

5/20 朝日新聞 朝刊「声」にて

携帯電話のシステム構築に携わって十数年とかって人の声。非常に納得なので、抜粋。

一昔前は携帯電話は何処に居ても親の危篤の連絡を受けられる、そして、海外では
通常の電話回線をなかなか施工できない地域にそれを補うために携帯電話システム
を構築する、こうした理由からこの仕事に社会貢献意識が持てた。より多くの人に
安価で携帯電話を持って頂こうという理念で仕事を進めていた頃までは、本当に世
の中のためと自覚していた。だが、出来るだけ多くの通話料を加入者から取ること
に思考が変わって来たころから、つまり通信会社が娯楽情報を提供し始めた頃から
心の中で違和感を感じ始めた。携帯の画面を見ながら周りに全く気を使わずに歩く
姿に自分は良い仕事をしていないと痛感する。携帯メールの普及で相手の目を見な
がら話すことがなくなり、会話でリアルタイムに応答できない若者が増えていくの
だろう。携帯電話の存在をすべて否定するわけではない。だが、その発展が人間同
士の五感での触れ合いや、かかわりうぃ薄くしているのも事実ではないのだろうか。

出だしの「何処に居ても親の危篤の連絡を受けられる」って切り口にちょと笑ってみたり(ぉぃ 重要ですけど、もう少し明るいシーンもあるだろうと。出産とかさ、合格発表とかさ。まぁ、短絡的に若者が・・・ってのはアレですけど、いま、前提としてあるべきモノが無くなって来て、何でもアリ、ヤッた者勝ちな流れに流されつつあるのは事実ですなぁ。(厭世  携帯に限らず、オレが前提と言っている「公」での振舞い方ってのが最近蔑ろな感は否めませんな。みんなお互いの範囲を脅かさず協調し共有し利用したり活用したりってのが社会って背景でわと思うです。これ無しに社会行動は有り得ないワケで、「公」の場所で「私」な部分を広げ散らかすってのは愚であると。簡単に言えば、人がたくさん居るところでタバコを吸うのも携帯で喋るのも他者にとってみればどちらも煙たいと。何が言いたいんだろ、おれ(汗